空っぽの冷蔵庫
10年前まで、我が家の冷蔵庫はカラフルだった。
牛乳、コーヒー、お茶、オレンジジュース、リプトンのミルクティー、レモンティー、たまにアップルティー、コーラ、アクエリアス…
冷蔵庫にぎっしり詰め込まれた、色とりどりのパッケージ。もちろんドリンクスペースだけには収まらない。
カラフルなパッケージに手を伸ばすものの、私は結局牛乳を選ぶことがほとんどだった。
「お兄ちゃんの飲み物買っておかないとね」
母と買い物に行くと、しばしば発せられたこの言葉。
「お兄ちゃんの飲み物」
そう。カラフルなパッケージは、お兄ちゃんのものなのだ。
もし、兄が帰宅してから飲もうとしていた物に私が手をつけてしまっていたら、兄は不機嫌になる。
「は?何勝手に飲んでんだよお前」とか、
「ふざけんなよ」とかなんとか私や母に怒鳴るのだ。ひどい時には足が出たり物が飛んでくる。痛い。怖い。
たまに耐えかねて「これ飲んで良い?」なんて聞いても、母親はダメとは言わない。
「いいよ、明日同じの買っておくから。」
喜んで手を伸ばしかけた瞬間、嫌な想像が脳裏に浮かぶ。
「あれ?ミルクティーあったよな?どこ?」
その後の展開を想像して、結局やめるのだ。
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兄と私は8つ歳が離れている。
思春期成長期真っ盛り。約175センチの男子学生に対し、私はだいたい135センチ。
兄の怒号も不機嫌な態度も暴力も、何もかもが恐かった。
家という閉鎖空間で、私は巨人が暴れないように、不機嫌にならないように気をつけていた。
リスクが少ない飲み物はお茶とコーヒーと牛乳だった。お茶は2L、コーヒーと牛乳は紙パックの1Lで備えてある。
コップ一杯飲んだところで、空っぽにならないよう気をつけていれば大丈夫。
中でも牛乳は、背を伸ばしたい一心で選択していた。好きとか嫌いとかそんな理由ではなかった。身長に関してはそんなに効果は出なかったけど。
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兄が家を出てから、我が家の冷蔵庫は空っぽになった。
冷蔵庫を埋め尽くしていた飲み物は減り、お茶とコーヒーと牛乳の3つになった。
そっか、そりゃそうか。お兄ちゃんが出て行ったんだから、お母さんが「お兄ちゃんの飲み物」を買う理由は無いのか。
少しだけ、期待していた。お母さんが「私の飲み物」を買ってくれて、私は兄に気を使うことなく美味しく飲める。そんな未来を想像していた。
「お兄ちゃんが出て行ってから、食費が浮いて助かるわ」母はおどけてみせたが、その言葉が真実であることを、目の前の空っぽな冷蔵庫が証明していた。
そんな状態で「私にも買ってほしい」なんて言えるはずがなかった。
空っぽになった冷蔵庫は、時々昔のようにカラフルになる。
「明日お兄ちゃん帰ってくるって!」
母の言葉を待たなくても、冷蔵庫を見ればわかる。
大人になった私は、やろうと思えば私自身のお金で冷蔵庫をカラフルにできる。
それでも、空っぽな私の心は満たされないのだ。
もちろん、母が「お兄ちゃんの飲み物」を買っていた理由は、息子への愛が全てでは無いと思う。
多かれ少なかれ、母も兄の不機嫌さに、暴力に、怯えていたのだと思う。
だが、息子のために好きなものを買い与えるその姿は、親から子への愛情の一環ではなかろうか。
そんな風に考えてしまうから、私は空っぽな冷蔵庫と、時々カラフルになる冷蔵庫を見ると切ない気持ちになる。
自分で買ったミルクティーはあまりに甘くて、一口しか飲めなかったのはここだけの話。
お化粧
きっと、他の人からすれば決断、なんて大それたものではない。
けれど私にとっては、自分の中の偏見を取り払う大きな一歩。
お化粧を、することにした。
私は女の子じゃない
お化粧は大人の女の人がするものだ、という幼い思い込みがあった。
自分の戸籍は女性。
身体も、まあ、生物学的な判断で言えば女性。
ここまでは揺るがぬ事実だし、自分でもそれを認めている。
それでも、自分が女性であると言い切れない「違和感」があった。
違和感を抱えながら成長し、高校時代に「Xジェンダー」という概念を見つけた。
「男でもなく、女でもない」
「男でもあり、女でもある」
「男の場合もあるし、女の場合もある」
「性別なんてない」…などの考え方を包括する概念である。
私はこの概念の「男でもなく、女でもない」という部分に最も共感を抱き、以降数年間生きてきた。
しかしながら、というべきか。だからこそ、というべきか。
化粧=女性のもの
という幼い思い込みがあるがゆえに、長年「化粧をする」という行為を可能な限り避けていた。
化粧だけに留まらない。かわいい洋服やスカート、成人式で振袖を着ること、髪の毛を巻く、女性専用車両に乗る、など、およそ女性であることを意識してしまう言動やイベントから逃げていた。
お化粧したくない、のではない。面倒…なのはちょっとだけ本音だが、
「お化粧なんて自分には不自然だ」「お化粧は自分がして良いことじゃない」
「だからお化粧することは恥ずかしい」
そんな思いから、多少迷いつつも「化粧」という行為からずっと逃げていた。
一方で、逃げてはダメだ、という思いもあった。
なぜなら、私は社会人になってしまったのだから。
社会人=女性は化粧をしなければいけない
という考えなんてクソくらえ、と思う反面、「身だしなみとしてやらなければいけないよな…」と諦めている自分もいた。
(自分は女性じゃないから、化粧は不自然。似合わない。恥ずかしい。)
そんな想いを抱えつつ、半年くらいは化粧を頑張った。
半年経過したころにはすっぴんで会社に行くようになった。
怒られたら化粧しよう。そう思っていたのに、だれも私に化粧をしろと言ってこない。
意外だなあと思いながら、これ幸いとすっぴんで社会人になって4年目の春を迎えた。
転機
たまたま、髪の毛をバッサリ切った。
美容師のお姉さんに「短くしてください」と言ったら思った以上に短くなっていた。
鏡を見た瞬間、顔がにやけた。
「この自分、めっちゃ好きだわ」
この髪型の自分が好き。
この髪型に似合う表現をできたらもっと自分を好きになれるのではないか、そんな思いがふつふつと湧いてきた。
女性に成るためじゃない、社会人に成るためでもない。
私が「理想の私」に近づくために、化粧がしたい。
あれだけ忌避していた「化粧」という行為を、今では自ら選んで行っている。
今でも自分を「女性」とは思っていないけれど、かっこいい大人にはなりたいな、と思っている。
そのための手段として、明日も私は化粧をする。そう、今は決めたのだ。